昭和43年3月8日 夜の御理解


 今日、大阪の森かつ子さんから手紙がまいりました、あちらで信心の稽古ができませんから、近くの教会でおかげを頂く様に言って、私申しておりました。どこの教会でおかげを受けたらよかろうというので、「まあ、あんたの所から一番近い教会におかげを頂きなさい」と言うておりましたが、あのう、今日そのおかげ頂いとる模様を、いろいろ買いて来てるんですね。大阪の泉尾教会、泉の尾と書いて泉尾教会におかげを頂いておる。まあ名実ともにというわけでもないでしょうけれども、まあ日本一の教会です。もうお広前は、ま、間違いなしに日本一。今度五億円からの予算で実際は三億七千万ですかね、かかって見事にお広前が出来たと。もう本当に、あの聞いてから驚くばかりですね。あの八波の御神紋が純金で出来とるそうです。お扉を開くと、中の御神教にゃダイヤモンドがちりばめてある。こりゃあもう本当に、成程それだけ沢山のお金がかかるだろうとそう思いますね。けれどもやっぱり、私は思うのですけれども、人間でさえ金の指輪もはめますもんね。ダイヤの指輪だってはめるんですから、まして神様ですから私はそれでいいと思うですね。そうあらなければ嘘だと思うんですよね。同時に私は、その親先生という方の、ま、御信心の一旦を書いて来てあるんですけども、やはり私達から考えますと、ばかみたいに大きいですね。ま実感が伴わないです。読まして頂きよって。けれどもやはり、それがそちらの先生の実感なんですからね。信心なんですから。だからこそ、そのあれだけの日本一を自称される様なお広前でも建立できるんですね。信心のやはり実証です。その中にこういう事が書いてあります。信者がね、助かる事を思い出したらね、ご飯が喉を通らんちゅう。それをわたし今日、お食事さして頂きながら、家内と話したんですけれども、私反対に、もう本当に何を頂いても、美味しゅうて美味しゅうて残さんじゃったもん。本当に美味しくてたまらん。もう大変な、その内容の違いだなと私は思うたんですけどもね。また、その泉尾の教会に御縁を頂いて、毎日お参りできないという信者がおる。そういう信者が助かる事を考えだしたらね、命の根を止めたい程に思うと言われるそうです。もう自分の息する事すら、もう、もし助かるなら止めてもいいという気がすると言われるそうです。ほんなこっちゃあるじゃろかという感じですけども、やはりそれがそちらの先生の実感であろうとこう思うですね。だからこそ、あれだけのひれいが、まあ私達から考えますと、もうとてつもない心境のひらきというかね、心境の進められておられる。そりゃ皆さんでもそうでしょうが、信心をさせて頂く様になってからと、信心頂いてなかった時の気持ちというものは、ものの見方、考え方が全然違うでしょう。金銭なら金銭に対するところの事でも、全然見方、考え方が違って来る、ね。ですから信心のない者が、それを聞いたり見たりすると、バカらしいこっちゃあるですね、という事になって来るのです。それだけ皆さんの心が成長しておるんです。ですからやはり、そういう高度なというか、高いというか、深いというか、気持ちがですね、開けて来る事もまた、これはうそではない、うそみたい。
 私が親教会の五十年の記念祭をおかげ頂いた時に、もう、あのお祭り私拝まして頂きながら、私の心の中にゃあ、もう一生懸命百年祭の事を考えておった、親教会の。もうその事を考えただけでも感激する、感動する。そりゃあもう大変なお祭りで御座いましたが、そのお祭りの感動ではなくて、私がその親教会の百年の記念祭の事を思う。私がちょうど九十三になる、ね。私が九十三の時に親教会の百年祭を仕えるが、その時には、ああだこうだと心に描かして頂いただけで、心が有り難うなった。私はその事をある先生方にお話したんです。そしたら本当にもう軽蔑する様にしてからそれを笑われた。私の気持ちがわかられんのですよ、ね。「そげんこつ考えんな、もう五十年なら五十五年祭の事考えたらよか」と言った様な事なんですね。勿論、五十五年祭の事だって六十年祭だって、百年祭を考えた時考えとらんはずがないです。中に含まれとる、ね。ですから私がそういう、なら五十年も先の事を、親教会のその記念祭の事を私が思う事がですね、なら、皆さんにも通じなかった様にですね、やはりそうじゃなかろうかとこう思うです。例えば蜘蛛がこう巣をかけて、蜘蛛もネバの中に蜘蛛がとまっておる。まあ一間なら一間先ぐらいの所に、ちょうど蜘蛛のネバが見えない。その中に蜘蛛だけが止まっておる様に見える。それを、はあ、蜘蛛があそこに宙天ぶらりんと待っておる様に見える。側に行って見ると、成程こんなに緻密な蜘蛛のネバというものがあって、その中に蜘蛛が止まっておるんだという事がわかる。そこを側まで行って見た人はですね、蜘蛛ときものは、こういうネバを出して、その中にこうやって止まっておるもんだと説明しても「そげな事があるもんか。ありゃあ、宙天ぶらりん止まっておるんだ」というふうにしか言われん様なもの、側に行ったもんでなけりゃわからん。そこまで心境開いたもんでなけりゃ実感の来ない事柄、ね。そいでわたしゃ思う。今日家内とも話したんですけれども、私が言う事がお前達にでも、茂雄さん方にでも通じない事が沢山あるだろう、と私は思うんです。「先生あげな事言いよりなさるが、ほんなこっちゃろか」と思う事があろうと思うです。けれどもそこにはです、おかげという実証が成されての事。私達が考えたらですね、はあもう、信者が助かる事を考えたらね、ご飯が喉を通らん程にある。私は反対に美味しゅうて美味しゅうて、何を頂いても有難いというふうに有難い。けれども真剣にそれば思いだしたら、ご飯が喉を通らん。不信心な滅多に参って来ん信者達が本当に助かる事の為なら、自分の命の根を止めてもよいという程に切実に考えられる。私達はそんな事なく、ね、あ、ほんに、あげな信者があった程度に思うて、思い出した時どん、お願いする様な事なんだけれども、ね。泉尾の先生の言われる事が、ほんにそうじゃなかじゃろかと思うごとあるけれども、そうではなかろう。それが先生の信心であろう、実感であろう。その証拠には、そういうおかげの実証というものがなされておるんだからな、とわたしゃ改めて思うたんですけれどね。皆さんの信心でも、だからね、そういう事があるもんかと言わずに、そういう境地というか、そういう信心をです、お互いが一歩一歩目ざして、そこへ近づいて行かなければならん。でもそげな事んという様な事が、実際皆さんにでけておるんですものね。ものの見方や考え方がね、全然変わって来る、ね。そこにその人の救われて行くというかね、助かって行くその程度というか、度合いというものを、その思うておる内容によって感じられる。あまりに神経の進んだ人というとですね、それはもう本当に、本当じゃろうかと思う様にある。どういう心配、私に例えて言うなら、うちの子供達ならうちの子供達の事、もうあの大学とか高校入試のいくらもお届けがあっとります。これはもう、それこそ絶えず思う、絶えず祈る。ところが、うちにも今度は高校行くんが一人おりますばってん、ほんにまた、直子って言うますけども、直子の高校の事まだほんに神様にお願いしておらんてと思う。だからこんな事言うたら、ほんなこっちゃろかと皆なが思うじゃろ、自分ちの子供の事一生懸命願いなさりょうるくせにち、思うごたるけれども、実際はそうじゃないです。だからそういう気持ちなんかも、ひょっとするとわからん人が沢山あろうかと思うですよね。ですからね、自分の心の信心のない者、信心のある者の心の内容というものはそんなに変わって来る。有難い事へ育って来る。ですから少しでも自分にはわからないけれども、そんな気持ちはわからないけれども、そういう気持ちもあるもんだという事をですね、ひとつそれを信じて、やはり進めなければいかん。そういう事があるじゃろかで進めたところでそれは本当の事じゃない、ね。教えを頂くでもやっぱそうなんです。そういう気持ちになったら、本当にそういうおかげが受けられるであろうというところから、私はおかげを頂かなきゃならん。
 かつ子さんが初めて向こうの先生に会ってから、お取り次ぎを願った時ですね、「あの森さん、あなたにお願いがあります」「どういうお願いでしょうか」と言ったところがね、「あなたのご主人に真実であって下さい」とおっしゃった。それから二つ目にはですね、三つ目はちょっと失礼致しました。三つ目は「もっともっと元気な心で信心して下さい」とおっしゃった。本当に、その、やはりそういう事にならないとです、あのおかげが受けられんという事をですね、だから、そのあっちの親先生とそういう約束がでけてといった様な事が書いて御座います。今まででも主人を大事にしておったでしょうけれども、もっともっと切実に大事にして下さい、とこういうわけなんですね。信心に毎日毎日お参りをするくらいですから熱心ですけれども、それよりももっともっと元気な心で信心して下さいとこう言われたと、ね。そういう所に、成程おかげを頂かれる教会、または先生の違いを私は感じましたんですね。私共はそうじゃない。とにかくおかげを頂かなければでけんと思うて、まず私はおかげをお取り次ぎさしてもらう。そしておかげを少しわかって来た時に初めて、御理解を説くというのが私の流儀ですけれどもね。本当にやはりそうだと思うんです。どうぞ。